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悪あがきはやめて 県民のための県政を望む

 突然の衆院議員解散により総選挙が行なわれた。結果は自民党の圧勝となった。政権与党としての責任がより一層重くなったことは事実である。おごることなく国民に軸足を置いた国政運営をしていただきたいものである。

 軸足といえば、我が長野県の知事はどうなっているのであろうか。知事職も十分に全うしていなのに、【自分は全うしていると思っているから始末に負えない】新党の党首を買って出たのか、頼まれたのか知らないが、見識に欠けることおびただしいことである。「どうして私だけ二足のわらじは駄目といわれるのか」と記者会見で嘯いている。しかも、「石田冶一郎県議は農業者会議会長やいろいろな要職を兼ねておられる」というようなことを発言していた。チョット意味が違うのではないのか。実務者が他にいて、年に数回の会議の長や、あて職的な「長」とつくものは県会議員になればいくつもある。
知事職や党首は根本から目指すものが違う。それぞれ県民や国民の福祉向上のため、身魂を全て打ちこんでこそ成しうるものである。それでも半数の皆さんは満足できないのが常である。何を考えているのだろうか。知事に意見を言う側近はすべて排除してしまい、イエスマンを周囲に固め、全て細かいことまで知事の決済を受けなければ、ことが進まない現実はどう説明できるのか。

 副知事を置かないのは県議会がお認めにならなかったからというが、もともと副知事を飾り物だけで意見を求めたり、自分の腹心として実務を担当してもらおうとなど考えていないのではないのか。心から長野県を考え、そのために必要とする副知事を提案してくるべきである。候補に挙がった人たちがどれだけ精神的被害を受けているのか分かっているのか。あまりにも県民不在で自分中心的な振る舞いに本当に腹立たしい。

 更に「県のバージョンアップを求められるなら、それを一緒にお手伝い頂くのは県議会をおいて他にない。聡明なる県議会の方々が、あらためて県民益の観点から、共に手を携えるというご認識に立ち戻っていただくことを願う。」と会見で言っている。もともと県議会は団体としての役割は、県の施策に対し協力することは 当然な義務である。県議会の機能の中に県に対するチェックをしなければならない義務もある。チェック機能を果たす上に「イエス・ノー」はついてまわることだ。そのことは田中康夫氏個人がにくいからという判断ではない。あくまでも県知事の県政施策に対し判断しているのだ。同じ県民の利益に叶うか、かなわないかの判断は、知事の間違いを修正しようとすることであり、そのこと自身知事の失政を事前に防ぐことであり、県議会はお手伝いしていることなのである。

 新党日本の代表と県知事の兼務について「知事室にいなければ県政が滞るということがあれば、それこそ県職員が、全て私だけに権力や権限を集中するお任せ民主主義や,師事待ち症候群に陥っていることになるため、それを解決しなければならない。」とABNで言っている。チョット待ってください。自分が全てを目を通し指示を出さなければ気がすまない。更に突然自分の思い付きを発表し,県職員がその説明作りに追われる。それが実態であろう。権力は全て田中知事にあり、権力もてあそび症候群にかかり重症となっているのが、知事ではないのか。県職員よ怒れ!、実態は逆であると叫べ!、知事の指示を待っているのは県職員であることを発しなさい。県職員を単なる使い捨て小道具としか思っていない知事にもっと苦言を言うべきではないのか。現に富士見町は知事が新党日本の第一声を軽井沢から発表したことによって、予定されていた要請活動がキャンスルにされた。この事実一つとっても明らかに県民のための県政が滞ったことになる。

 自分中心にしか考えない方には到底理解はできないと思うが、ご自分の三役を お飾り的にしか考えていないで、心底から相談も投げかけることができない知事。県議会も単なる反対集団としか考えていない知事。その方に県のバージョンアップなどいう資格はない。新党日本も党首に相談があったか知らないが、国会では他党と連携を組んでいくとのことである。その現実は地方の議会とて同じで、一人や二人で国会での議員活動は非常に難しい。国会議員として現場の議員の行動は理解できるが、その党首はそのことを一番嫌っていたことではないか。これも説明ができないであろう。

 もう悪あがきはよして、素直に県民や県議会の中に飛びこみ、本当の県民益を求めるべきではないのか。県議会はいつでも門戸を開いていることを忘れてもらっては困る。素直になりなさい、と言っても分からない方ではあるが、少なくとも長野県知事の職にある限りは、県民の皆さんを大切に考えて頂きたいものである。