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知事としての言葉も、統治者としての心も失った田中康夫さん

 昨日の田中知事記者会見の会見内容が、今朝の各新聞に報じられた。田中知事は「議会は小説より奇なりということだ」と反論したという。反論は結構だがいよいよ田中知事も、あまりにも真実を述べられ、返す言葉もなくなってしまったのかと思った。と同時に長野県知事としての資質を改めて疑ったところである。

 最初に申し上げておくが百条委員会は、元々政治闘争の一環として設置したものではない。あまりにも田中県政が私利私欲のでたらめな県政運営をしていたことを、2年にわたって総務警察委員会で真実を質してきたのだ。その際田中知事も含め、知事が寵愛し抜擢した側近の松林経営戦略局長も、議会が真実を求めようとした質問に一切応じないで、逆に疑惑を深めさせたのは紛れもなく2人の責任は大きい。まず、そこから端を発している事を知るべきであろう。やましいことがなければ総務警察委員会で明確に答弁すれば百条委員会など設置されなかったはずである。

 県議会や市長会、町村会などを挑発することが県知事として県民のための施策を推進する上で可とするべきことだろうか。220万の県民の心を、自分の政治遊びの道具にし、もてあそぶことは許すことは出来ない。『メールで報告があったとき:その時に、首根っこをつかまえて、お前は何をやっているのだ、といわなければならなかったのか』とも嘯いていたという。なぜ、そのように言葉と行動でやめさせなかったのか。知事として当然なことではないか。

むしろ自分がガラス張りの県政をうたい、県民に包み隠さない県政運営をします、積極的に情報公開をします。といってきたのは田中康夫長野県知事、貴方ご自身であることを、よもや忘れてはいないはずだ。それを承知で職員が公用文書を、今破棄しようとしている現実を知ったときは「やめさせる」事は誰が考えても当然な役目であると思う。『やめさせることが出来なかった』深い理由があったから出来なかった。だからこそ、見て見ぬ振りをして容認しただけであることは、県民等しく理解できることであろう。

27日の私のホームページで「論点整理した結果報告」を掲載してあるが、私の論理にいささかも曇りはないと自負している。論理となったメールのやり取りを根拠として示してもよい。今日は『移動志昂会in諏訪』で原村の『八ヶ岳自然文化園』に来ているので資料を持ち合わせていないので、近日中にお知らせし県民の皆さんのご判断を仰ぎたい。冷静にものを言えなくなったということは、統治者としての能力も心もなくし(もともとなかったかもしれないが)失格者となってしまった証なのだろうか。

 本日の移動志昂会in諏訪も、大勢の参加者の中で開かれた。今までの5回と進行方法を変え、参加者と質疑応答の時間を多くとった。参加者は高校改革推進の仕方について大きな疑問と不満を持っていた。やはり県民にとって大きな関心ごとであることが改めて知ることが出来た。熱い県民の訴えを正直に県教育委員会に伝え、その意見を無駄にしてはならないと感じた。また、この夏の知事選挙にも今まで以上に関心を持っていることが感じられた。