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自殺のニュースに思う・・もっと広義の議論を・・

 最近の新聞・テレビでは毎日のように自殺や自殺に関わるニュースが報道されている。自殺にはそれぞれ自分だけしか分からない理由はあると思う。しかし余りにも命を粗末にしすぎる。相談が出来る友達など人間関係が疎遠になっていすぎる。人間関係を良好にしようとする気概もなさ過ぎる。昔からの日本の人と人との交わりなど、日本のよき文化・慣習が忘れ去ろうとされているのが残念である。

 特にこどもたちの自殺は「いじめ」が深く関係していると報じられている。確かにそう言った事例もあると思う。「いじめ」をなくす事も重要な要素であると思う。今日は「いじめ」について深く論じたくはないが、「いじめ」は昔も今も、こども間や大人の世界、嫁と姑間などあらゆる人の交わりの中には変わらずあった。その「いじめ」をどう捉え、自分の生きていくうえで、どのように吸収していくかも大切であろうとも思う。

 大事な事は子供たちに命の大切さを教えなければならない責任ある大人が、自分の責任を回避し簡単に自殺をしてしまっている事にも問題があると思う。何かの事件にかかわり自分に容疑が向けられ、善悪が分かる大人が説明責任や罪の責任から逃げてしまっている。少しでも有利にしたいとか、情状により罪の減免を図ろうとする事は許されている範疇である。単なるその場の苦しみから逃げるかのように自殺する事は避けるべきであろう。自分が問題解決に向かっていても、周りの誤解やエゴや過剰ともいえるマスコミ報道など、自分の意と逆の方向に誘引され、それが自殺に結びついてしまっている事もあると思うが・・・。

 それが生活の苦しみからとか、介護の疲れとか、様々な理由はあろうかと思うが、許されない極めつけは校長先生の自殺である。親の次に命の大切さを教えてきたはずの教師が、その教師を束ね監督しなければならない校長先生が、自分の教育指導の誤りなど(現在の社会環境や教育環境の狭間の中での選択による)を苦にしての結果である。校長先生一人の問題ではないはずである。国の教育全般に関わる問題でもあるはずだ。何故素直に現実の状況説明をしなかったのだろうか。

 説明をしたからすべてが解決できる問題ではないし、そのことによって気持ちが晴れるものでもない事は理解できる。しかし、命の大切さを教えてきた教師の長が、自らの苦しみから簡単に(本人は苦しみぬいた結果かもしれないが)命を絶つことは、こどもたちから見ても命の大切さも尊さも肌で感じ取る事は出来ないであろう。正当性ある自殺などはありえないが、仮に周囲から00のために犠牲となったなど、一時は感傷的な評価はされるかもしれないが、子供たちに生きる大切さを教える事には結びつかないと思う。

 むしろ、理解されるまでの過程は想像以上に苦しいと思うが、真正面から問題の核心を説明する事によって、こどもたちも保護者も理解できる事になるのではないだろうか。その正直さの積み重ねが子供たちとの人間関係も深まり、その中で命の大切さを教えたならば、子供たちも納得して受け入れられるものと思う。 

 希薄な人間関係はそういった毎日の、何気ない会話や人間味あふれる肌と肌の付き合いによって解消され、親と子・教師と児童生徒が信頼の上に成り立つ人間関係ができるのではないだろうか。信頼関係があればこそ、決して優しさばかりでなく、怖さのある会話や態度を見せる事によって、生きていくうえで甘さでなく厳しさのあるメリハリのある生活が身についていくものと思う。校長先生の自殺に対して意見を述べているが、すべて教師など学校に問題があるといっているのではない。家庭での問題の比重が大きいと言うより、問題を解決できる場の原点である事も忘れてはならない。

 成人した人間は誰しも何らかの苦境に立たされ、自殺したくなるような心境に陥る事もあると思う。それらを乗り越えてきた原動力は何か、少なくとも親兄弟をはじめとする親族のしつけや、友人や先輩からの会話の中からの勇気付けであったと思う。やはり人間関係の尊さ、必要性を今の子供たちに教え継承していく事が必要ではないだろうか。「いじめ」という狭義の中での議論でなく、今忘れ去られようとしている人間関係の大切さ、人と人の交わりの大切さと言う広義の議論展開が必要ではないだろうか。

 短い紙幅(ブログ)の中で正確な意思を伝える事は出来ず、誤解を受けられるかもしれないが、問題の核心は「その事例そのもの」だけに目を向けるのでなく、もっと視野を広げその要因となる根を見つける努力をし、その根を根絶するか改める事が必要である事をご理解いただければと思う。