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 21日 国会人事同意案が事前に報道された場合、原則として国会への提示を認めないとする、いわゆる「事前報道ルール」が撤廃することで与野党が合意したと報道された。私は、以前事前報道は議会軽視につながるものだとの見解を示した。事前報道は与野党間でルール違反だと約束されていたからである。今回の合意は本来もっと早く撤廃に向けて意思決定するべきであった。以前の見解と違うではないかと思われると思うが、ルールがある限りルールを守ることは民主的な議会を展開する上で重要だ。

 それでは何故と言うことになる。私が県議会議員の頃、県が県議会最終日に人事同意案件を提示し、その日の本会議で即決をすることとなっていた。人事の質疑は本会議では馴染めない。そこで事前に提示するよう議会として求め、ようやく事前に提示することとなった。提示と同時に報道機関が報道することは当然であり極自然な流れである。議会としても本会議までにあらかじめ調査することが可能となる。国会も早く「事前報道ルール」を撤廃するべきであった。それらの弊害を承知しながら与野党攻防に利用してきた。迷惑なのは国民であり人事案に名があがった当事者であった。

 これで、ようやく人事案で国会が極端にとまることはないだろう。後はとりあえず現状の景気の事実上の回復を待つのみとなった。国民は心底から景気回復を待ち望んでいる。早くそうなるよう期待したい。

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 16日 県は「健康長寿世界一を目指して」県がそれぞれ策定していた7計画を一体化して、「信州保健医療総合計画」をまとめたと発表された。国の縦割り行政の弊害の見本のような保険医療分野の諸計画が7本もあり、いずれも関連性があるだけに早くから一体化が望まれていただけに歓迎したい。

 私も歯科保健推進条例策定に携っていた頃、何とも不合理的だと常々感じていた。しかも健康福祉部の同じ部署で、目指す方向や目標は同じなのに別々に策定されていた。行政事務そのものを考えても無駄が多かった。これで名実共に健康長寿県長野から本来あるべき姿の保健医療計画が、それぞれが目指す目標を明確にして共に連携しあいながら推進することできることになる。

 阿部知事も「こういうものがバラバラであること自体、中央集権的な視点だ」と問題を提起されていることはよいことだ。長野県からこのようなアンバランス的な行政事務の改善に向けて提起していくことは評価したい。
一体化した新しい計画案によって、医師会・歯科医師会・薬剤師会等々の連携を蜜にし、一層県民の保健医療の総合的施策を展開していただきたい。改めて一体化に努力された健康福祉部の関係職員に拍手を送り、今後キーワードとされている「健康で長生き」の提案に期待したい。

 

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 13日 信濃毎日新聞の「むすんで ひらいて」(教育県再興)シリーズを読んで、私の思いを投稿した。シリーズの結びとなった本日(13日)に読者からの反響を紹介する記事が掲載され、私の投稿文の一部も紹介された。信毎読者以外の方もおられるので、改めて「トシミツ タイムズ」に載せ「いじめの事象」が何十年経過しても、心の負担を引きずっている現状を皆さんと共に考え直してみたい。ご笑読頂きご意見等賜りたい。

「むすんで ひらいて」(教育県再興)投稿文

 第2部 いじめ自殺26年目の問いを複雑な思いで読んでいる。ここにきて26年前を振り返ることはある面で酷な感じもする。しかし、改めて今も昔もいじめの周囲の行動は本質的に変りがないことを教えられた。教師は勿論、生徒間も家庭も当事者以外は余りにも無関心だということ。特に担任教師が適切な指導をしていれば一人の尊い命を救うことができたと思う。今回の取材にも受けないでいることは、余りにも教育者として失格だと思う。担任教師は失敗の反省をしたうえで、勇気ある謝罪と行動があってこそ、誤った事象の改善になると思う。

 教育県再興と言う大儀から26年前を振り返ることは大切かもしれない。しかし、この振り返りをどう再興に結び付けていくかが重要であると思う。「いじめ自殺26年目の問い」は取材される方も辛いだろうが、読む方も実はやるせない思いで読んでいる。やはり、26年前の事実は真摯に受け止めながらも、自殺した夕子さんとご家族には申し訳ないが一応のけじめをつけるべきときと思う。取材の中にもあったが誰もが「一生引きずる記憶」であると思う。クラスの同級会も開けないで罪の意識を抱えたまま大事な一生をこのまま続けてよいのだろうか。

 私は、「同級会を開き、みんなで墓参りに行きたい」と取材に応えていた同級生の一人と同じ思いである。是非実行していただきたい。そして、クラスの仲間がいじめで自殺した事実は拭い去ることはできないが、せめてこれからの人生を夕子さんのためにも「自分は人殺しだとの思い」を絶って、生まれ変わった人生を生きていくために、クラスのみんなで墓前に謝罪と線香をあげることで、事実を打ち消すのでなく、なくなられた夕子さんのご冥福と共に、自分たちの心も清め、気持ちの整理をすることは大事なことと思う。

 いじめ問題は当事者のみでなく社会全体で解決していくべきでしょう。色々な家庭環境と複雑な社会環境の中で、やはり教師と教育委員会だけを責められないが、問題の中心の立ち居地にいることは紛れもない現実の姿である。特に教師はいじめの芽を摘み取ることができる立場にいることを忘れてはならない。しかも、子どもから崖っぷちの際で切実なメッセージを受ける立場だけに逃げてはいけない。夕子さんのご家族のご理解を頂き、早くこのクラスの仲間の心を解放してあげたいものだ。

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 8日 国会で同意人事の案件でまたもめている。この問題も以前に私の考えを述べたところだが、ニュースになること自身残念なことである。国民の皆さんは何故事前報道にいけないと言うのかと思われると思う。確かに国民の皆さんにとって見れば大した問題ではないと映るが、議会側にしてみれば重要なことだ。それは、議会で同意か不同意かを議決を得なければならない「議会の同意案件」であるからだ。議会に同意を求めようとする人事案の詳細な中身を、議会に提示する前に報道機関が入手して発表することは、提案者側(政府側)が情報を議会提示前に漏洩させたことであり、議会側にしてみれば議会軽視につながると言うことになる。

 自民党も意図して漏らしたことではないと思う。以前にも福田内閣の時に日銀総裁の人事同意案件で迷走し長期間に渡って総裁不在を招いたこともある。政権の損失と言うより国民の様々な生活に影響がでるのが人事案件だ。同じ繰り返しを続けると言うことは、同意案件の重要性の欠如と情報管理の不徹底さ、国会運営の軽視・侮りにあると思う。報道機関は他社に先駆けてスクープとして取り上げたいと必至に情報収集に走るのは当然である。事務方の官僚か携った議員が、つい手柄の気になって情報を漏らしてしまう倫理上の問題だ。わずか数時間我慢していればすむ問題だ。

 自民党は経済再生をはじめ日本国にとっても国民にとっても重要な議案が目白押しの現状を重く見て、民主党だとか〇〇党がどうこうでなく、メンツをすてて速やかに謝罪をいれ、国会運営を正常化に戻すべきだ。政策に対する議論は大いに展開していただきたいが、このような類で大事な審議時間を無駄にしてはいけない。いや、そのような無駄な時間を費やす状況下ではないはずだ。二度とこのようなことのないように情報管理の徹底を図っていただきたいものである。人事案に対する与野党間のルールづくりはその後ですむ問題であろう。

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 4日 毎日楽しく読ませていただいている官庁速報ヘッドラインメール、本日のトップインタビューは和多利義之・広島県府中町長の「町民本意で独自の町政貫く」だった。個々に登場する首長さんの取組みは目を見張るものがあり大いに参考になる。このメールを一日の最初に見るのが日課となっている。マツダの本社工場など商工業施設が多く不交付団体となっているほどの豊かな町だ。首長としてさぞかしやりがいのあることと思う。

 和多利町長の話の中で一つ納得できない、久しぶりに聴くことばが載っていた。【小さな自治体は、いわゆる迷惑施設の設置・運営で苦心するケースが多い。】
と、し尿処理とごみ焼却処理、不燃物処理に火葬場を「迷惑施設」と言い切っている。本当に迷惑施設なのだろうか。私は住民が生活していく上で最も必要な施設であると思っている。そもそも「迷惑施設」といって、設置予定地区へ予算配分を優利にさせて、地域住民に「迷惑施設」と思わせてきたのは誰か。行政側ではないか。

 国も県も市町村も住民が生活していく上で必要な施設をもっと大切に考え執行努力をするべきではないか。「迷惑施設」と決め付け当該地区に集会施設など、アメを贈り続けてきたことに誤りがあると思う。確かに技術が劣っていた昔は粉塵や臭気で悩んだときはあったと思う。科学技術が発達した現在でも、ベテラン町長がこのような発言していることは時代錯誤だと私はいいたい。

 「迷惑施設」といった間違った概念の説明を卒業し、文化施設やスポーツ施設を設置する際と同じように、皆さんの必要な大切な施設として行政はもっと自信を持って理解を求める努力を行うべきとではないか。人口減少社会に入り財政的苦難な時代を迎え、無駄を抑え協働の地域づくりを進めるためにも、常に住民の生活をする上にとって必要な施設として、快適で住みよい町づくりの一環として普段から理解を求める努力をしていくべきと思う。


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 2日 今日も桜宮高校で他の部活にも体罰があったと報じられている。この頃柔道界での体罰・暴力も大きな問題になっている。各地の学校現場におけるスポーツ体罰による自殺、柔道界の暴力など、どの事象も同じ思考の元で論じているような気がする。私は以前(1月22日)のこのブログで、『私はスポーツを含めあらゆる学びを吸収する際、程度は難しいがある程度の体罰はやむを得ないと思っている。』と思いを載せたことがある。この文言や、これから記そうとする本日のブログ記事も誤解されそうなので、私の体罰・暴力に対する考えを先に述べておくことにする。最近のマスメディアで報道されている内容の体罰・暴力はあってはならないし、許すべきではないと言う考えが基本的考え方である。

 1月のブログ上に記した「ある程度の体罰はやむを得ない」とする考えと大きく違うではないかと感じられると思う。体罰と言う言葉を使用しているからである。私のイメージしていた体罰は暴力的な体罰、人格を損なうほどのことばの体罰ではなく、あらゆる学びを吸収する際の『愛のムチ』だ。身体的・精神的・技術力向上のため進んで取り組む人に、指導者は強固な体・強い前向きな心・優れた技術力を少しでも上達させたいと言う思いは誰より一番あると思う。報道されているように例え憎しみがなくても、怪我をするような「愛のムチ」は『ある程度』を超えた体罰・暴力といえる。痛みを伴うかどうかぐらいの「小突き」や竹刀等で叩くことは、暴力と言えるのだろうか。私は「愛のムチ」と言う体罰だと解釈している。この程度の体罰と暴力的体罰と同じレベルで考えたくない。

 報道されている一連の体罰・暴力事件は、その現場を見ていないので分からないが、報道の通り体罰・暴力であるならば断じて指導方法の改善を求めるべきだ。仕事の面においても先輩が後輩に指導する場合もかなりきつい指導をしている。すべてをパワーハラスメントと処理すれば、日本のものづくりの技術をはじめすべての伝統文化も尻つぼみになってしまう恐れがある。仕事もスポーツの世界も、そこに携る人々は共通した使命感のような考えをもっている。趣味の延長上や何となく仕事をしようとしている人は、少しの「愛のムチ」であっても脱落してしまうと思う。すべての人々を公平になら分かるが、平等にとなれば進歩もなくなる。

 今日のブログで何を言いたいか。報道されているような体罰・暴力で自殺に追い込むような指導は断じてあってはならない。しかし「愛のムチ」的指導の「体罰」まで奪い取ってしまえば、指導者も萎縮してしまうし、今後のスポーツ界や日本の産業、文化伝統の継承に黄信号が灯るような気がしてならない。私の考えが間違っているだろうか。

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