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「体罰と暴力」と「愛のムチ」

 2日 今日も桜宮高校で他の部活にも体罰があったと報じられている。この頃柔道界での体罰・暴力も大きな問題になっている。各地の学校現場におけるスポーツ体罰による自殺、柔道界の暴力など、どの事象も同じ思考の元で論じているような気がする。私は以前(1月22日)のこのブログで、『私はスポーツを含めあらゆる学びを吸収する際、程度は難しいがある程度の体罰はやむを得ないと思っている。』と思いを載せたことがある。この文言や、これから記そうとする本日のブログ記事も誤解されそうなので、私の体罰・暴力に対する考えを先に述べておくことにする。最近のマスメディアで報道されている内容の体罰・暴力はあってはならないし、許すべきではないと言う考えが基本的考え方である。

 1月のブログ上に記した「ある程度の体罰はやむを得ない」とする考えと大きく違うではないかと感じられると思う。体罰と言う言葉を使用しているからである。私のイメージしていた体罰は暴力的な体罰、人格を損なうほどのことばの体罰ではなく、あらゆる学びを吸収する際の『愛のムチ』だ。身体的・精神的・技術力向上のため進んで取り組む人に、指導者は強固な体・強い前向きな心・優れた技術力を少しでも上達させたいと言う思いは誰より一番あると思う。報道されているように例え憎しみがなくても、怪我をするような「愛のムチ」は『ある程度』を超えた体罰・暴力といえる。痛みを伴うかどうかぐらいの「小突き」や竹刀等で叩くことは、暴力と言えるのだろうか。私は「愛のムチ」と言う体罰だと解釈している。この程度の体罰と暴力的体罰と同じレベルで考えたくない。

 報道されている一連の体罰・暴力事件は、その現場を見ていないので分からないが、報道の通り体罰・暴力であるならば断じて指導方法の改善を求めるべきだ。仕事の面においても先輩が後輩に指導する場合もかなりきつい指導をしている。すべてをパワーハラスメントと処理すれば、日本のものづくりの技術をはじめすべての伝統文化も尻つぼみになってしまう恐れがある。仕事もスポーツの世界も、そこに携る人々は共通した使命感のような考えをもっている。趣味の延長上や何となく仕事をしようとしている人は、少しの「愛のムチ」であっても脱落してしまうと思う。すべての人々を公平になら分かるが、平等にとなれば進歩もなくなる。

 今日のブログで何を言いたいか。報道されているような体罰・暴力で自殺に追い込むような指導は断じてあってはならない。しかし「愛のムチ」的指導の「体罰」まで奪い取ってしまえば、指導者も萎縮してしまうし、今後のスポーツ界や日本の産業、文化伝統の継承に黄信号が灯るような気がしてならない。私の考えが間違っているだろうか。